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戦争体験者の証言

戦争体験者の証言②

イラスト:金澤裕子

市勿来関文学歴史館・連動企画
石井利水さんのお話:1928(昭和3)年生まれ、勿来町窪田

軍事教練

 勿来第一小学校を卒業すると軍事教練もあったので敷地内に兵器庫もありました。鉄砲や機関銃を置いてあり、年中(銃の)手入れをしていました。擲弾筒(歩兵用携帯火器の一つ。手りゅう弾よりもやや威力の大きい小型爆弾の射撃や、信号弾・照明弾などを発射するためのもの)までやらされました。あとは小銃。実戦で使う三八式歩兵銃の実物は3丁しかありませんでした。あとは模擬銃でした。とても重くて我々は担げませんでした。
 秋には稲刈りをした後に(訓練を)やらされました。20歳になれば兵隊にとられるから、そういった訓練をしました。

過酷な行軍

 8月30日に、赤井嶽のお祭り(毎年8月31日、9月1日は「火祭り」の名でも知られている夏大祭)に合わせて勿来から赤井嶽まで行軍しました。旧国道で植田に出て、渡辺町へ行って、湯本を通って行きました。
 内郷に行くには湯本の町から1回出て、内郷宮町から好間に行って赤井嶽に登りました。履物もろくなものがなかったので、足の裏にマメがべったりできてしまいました。暑い中長時間歩くと足の裏がおかしくなってしまいました。
 内郷までは歩いておりてきたけれども、帰りは汽車で帰ってきた。模擬銃を担いでだったので、途中で放り出したくなりました。
 旧平駅から飯野を通って豊間、豊間から江名、中ノ作を通って小名浜まで歩いたこともありました。これも軍事教練の中の一つで、そういった過酷なことばかりやらされていました。

配属将校が来た

 
 2年生の半ばに戦争が激しくなって配属将校が来ました。士官学校を出た出蔵出身のトイダ先生という数学の先生がいらっしゃいましたが、全然数学なんかやらなかった。陸軍中尉で生粋の軍人でした。磐城中学校、商業学校、小名浜水産あたりも将官以上の先生が来ました。
 朝は軍刀をさげて軍服で登校してきます。ビルマ戦線に参加したようでしたが、一時帰国して我々の学校に来たようです。我々が在学中に再出征してフィリピンで亡くなったそうです。戦地へ戻るときは「帰ってくるときは白木の箱だ」と言ってたので「先生そんなこと言わないで生きて帰ってきて」と言いました。

勿来基地の電気工事に従事

 
 昭和18年の6月か7月くらいからその年の年末頃まで基地を作る初期の工事で作業していました。
 (勿来実業学校に)入学してから2カ月ぐらい経ったころ陸軍の造幣廠(しょう)=基地を作ったりする部隊=が基地の建設を始めました。風船爆弾については極秘のうちに始めました。人出が足りないので(基地の)設備をやるために我々が駆り出されました。
 朝学校へ行くと陸軍の車が校庭に迎えに来ました。弁当を持って勿来駅の方向へ工場まで車に乗せられて行きました。
 道路に衛兵所があって、兵隊が銃剣を持って立っていました。(衛兵は)交代で24時間警備していました。そこから中にはやたらと入れませんでした。
 その頃は国道は無くて、勿来第二中学校辺りも人家は無くて、一面畑でした。胡口屋から勿来第二中学校への道路も無かったです。鉄道の引き込み線を作るのに稲荷山を削って山のすれすれを線路が通っていました。
 電気が無いと何も出来ないのでまず電気工事をしました。電気工は中国から来た年配者でした。(兵隊は)若い人はいないので年寄りばかりでした。
 体格のいい同級生たちが(電柱用の)杉の木を切ってきて担いできました。電柱はあまり高くしなかった。私は体が小さかったので、電柱に登って電線を引く作業をしました。
 藪の中でも電線を引っ張っていったので、それが大変でした。放球台は私が把握しているのは4カ所。あとはわからない。そこも電線を引っ張っていきました。それから兵舎の中にも。もちろん当時はそれが兵舎だとはわかりませんでした。

基地の様子

 
 何カ月も行っているとその日によって仕事も違いました。私が主に行ったのは電線を引く作業ですが、その他に線路に釘を打つときの釘を2~3回運びました。線路を敷くために、鉄道の専門家がいたと思います。
 駅の方から勿来の関に上がってくる道路の脇に、今は太陽パネルが置かれていますが、そこに当時はショベルカーのような重機が無いから朝鮮から連れてこられた人たちがもっこ(縄などで編んだ正方形の網の四隅につり綱を付け、棒でつって土砂などを入れて運ぶ道具)で土を運んでいました。銃剣を持った兵隊の監視付きでした。土をもっこに入れて2人で担ぎ上げます。朝から晩まで大変だったと思います。
 完成後は見ていないからわからないけれども土を運んで、その上にセメントで固めたのではないかと思います。
 引き込み線のプラットホームがあったのは覚えています。我々は無報酬でした。当時のことを知っているのは私1人になってしまいました。

空に浮かぶ風船爆弾

 風船爆弾をあげるころには部外者は全然入れませんでした。カモフラージュするための偽装網をかけたというのは知りませんでした。
 そのあとは、あがっていく風船爆弾を家から見ました。夕方にしかあげませんでした。夜はできないし雨が降ったらあげない。アメリカに向かって飛ばすから海風の時は全然飛びませんでした。
 天気のいい日にあがっていくのがきれいでした。西日が当たってブルーになりました。あっちこっちからどんどんあがっていきました。風船爆弾が太平洋の水平線のかなたに消えていく。太陽の光を浴びてきれいでした。
 風船爆弾の話は皆話しませんでした。あと覚えているのは常磐線。はっきりとわからないけれど南は南中郷駅から北は泉駅の間は窓のよろい戸を完全に閉めました。憲兵隊が汽車に乗っていて(よろい戸を)開けていたら大変なことになりました。スパイ容疑で即連れていかれてしまう。実際は汽車を降りれば飛んでいるのが見えるのにナンセンスだと思いました。

※体験者の証言を尊重し、文章表現はそのまま掲載しています。また紙面の都合上、一部抜粋となっており、完全版は市勿来関文学歴史館=電話(65)6166=にお問合せください。

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