福島県いわき市のニュースやお悔やみ情報をお届けします

戦争体験者の証言

長谷川淑子さんのお話:1936(昭和11)年生まれ、平

父に召集令状

 79年前の夏も暑い日続きでした。毎年この季節になると教科書に塗られた墨の様に黒い物が胸の中に拡がって来ます。子供時代の事で断片的な記憶ですが、忘れないうちに残しておきたいと思いました。
 1941年12月8日パールハーバーから長い戦争がはじまり、36年生まれの私は平三小の2年生になっており、43年頃は厳しい日々が続き、外科医の父にも召集令状が届き、44年2月に会津若松連隊の軍医として応召され、家族一同で若松まで見送りに行きました。若松の2月は雪の中で平では見たことも無い長いツララが窓を塞(ふさ)ぎ、地面は真っ白で父の部隊は千島へ行くとのこと。千島はもっと寒い北の端の海の向こうと聞かされました。

小川に疎開

 44年頃から平も空襲を受けるようになり、我が家も家財、診療器具、薬品材料、衣類等を田舎の方へ疎開し、建物の中はガランとして急に広い家になった様な気がしました。小学校2年生の毎日は防空頭巾をかぶり、南町から新川町ぐらいまで来ると警報サイレンが鳴り自宅の防空壕へ駆け戻る事が毎日で、学校で勉強した記憶は全く無く、平一小に爆弾が落とされ校長先生および数人の職員が命を落とされたと聞きました。
 そのうち南町にあった祖父と父の医院も、平駅前から大町までの焼夷弾爆撃で焼け野原になり、今の30㍍道路のもとになりました。
 幸い母と私達子供は小川町の山近くの農家の養蚕部屋に疎開していましたが、祖父と祖母は火から逃れて谷川瀬山から燃える平町を眺めて涙にくれたそうです。夏の間中、小川町で暮らし学校も無く毎日夏井川で遊び、バチ当たりの様ですが、子供にとっては楽しい日々でした。そのうち磐越東線の列車が空爆を受けたり、小川駅前の田に不発弾が刺さっていたり、海から艦砲射撃や空襲が続くようになり、小川の農村にも機銃掃射の飛行機が何度も来襲し、畳を組み重ね布団で覆って中に隠れたりしました。祖父の医院も再開出来ず、祖父と母は毎日リュックを背負って農村を回って、着物で食糧を分けてもらいに歩いていました。

ようやく終戦

 8月に終戦となり急に平へ戻り、祖父は焼け跡を片付けて乏しい材料で何とか医院を再建し、父の帰還を願いながら仕事を始めました。
 国民は皆食糧難で、祖母と母は庭を耕し南瓜や甘藷(かんしょ)を育て、祖母は非常に工夫上手な人で、その頃配給のララ物資=アジア救援公認団体が提供していた支援物資=の大きな緑色の缶に入ったトウモロコシの粉でパンを焼いたり、南瓜であんこを作りアンパンもどきを作ってくれました。お米も配給で玄米の時は一升瓶に玄米を入れ、細い棒で米搗(つ)きをするのが私の日課。庭の南瓜の世話や甘藷の手入れ等は子供の仕事で、南瓜の葉の茎は蕗(ふき)のように料理されたり、甘藷のツルも丁度ワラビの煮物の様に工夫上手な祖母の手で毎日食卓に上りました。
 配給の鮫の干物や、カジメという今思えば肥料用の海草をきざんで雑炊(非常に不味いものでした)にしたり、白いごはんをたべたのは何年も経ってからでした。
 再び学校へ登校出来るようになると、今度はどこから移ったのか女子全員が虱(しらみ)タカリになり、頭髪の中に虱がわいて毎日母に梳櫛(すきぐし)で髪を梳いてもらったり、クレゾールで頭を洗ったり、なかなか退治出来ず度々全校生徒が講堂に集められ、DDTの粉を頭から肌着の中まで噴射され、全員白いお化けの様になりました。
 後年、祖母が亡くなった時、祖母の思い出の話を母としていた所、母が急に怒り出しもう思い出したくも考えたくもないと叱(しか)られました。子供には楽しかったり面白かった様な事でも大人には非常に苦しく辛く長い日々だったのだと気付きました。

父の帰還

 49年の暮れ、最後の帰還船で父がシベリアから戻る知らせがあり、一家中で舞鶴港まで迎えに行きました。汽車は物凄い混雑で、2、3度乗り換え、はぐれないように祖父や母の手をにぎりしめ6歳と3歳の妹達は祖母と母の背にくくりつけられて道中しました。網棚の上まで人が横になり、窓ガラスが無いので煙が入り、窓から男の人が出入りし、子供は座席の下にもぐらされ酷い旅でした。
 写真だけで見ていた父とようやく対面出来た喜びの反面、一緒に出征した隣組の人や、同じ部隊の何人かはシベリアの土になってしまったと、父が涙を流すのを初めて見ました。軍医として一緒に収容所で生活した戦友の死は、戦死でなく酷い劣悪な環境の中での病死が殆(ほとん)どだったとのこと。捕虜収容所の寒い中で満足な薬も無く、弱って行く仲間をただ見守るだけで、医師としてどんなに辛い事だったか忍ばれ、終生、父の心の中の棘(とげ)として残っていたと思います。

経験者は声を上げて

 内地の私達は恵まれていましたが、3歳年下の妹は何も覚えていないと言っています。父の帰還を見届けて、翌年祖父が逝(い)きました。次第に忘却の淵に沈みつつある記憶は、子や孫の世代には私達が明治維新や西南戦争の話を聞くのと同じで、歴史の教科書からはスッポリと抜けており、次の世代には忘れられてしまうことでしょうが、父も母も彼岸の人となり、自分の経験も間も無く消えてしまうのでしょう。
 この現在も未だウクライナや中東の方で戦火が絶えないという事は誠に残念な事で、いつの世も一番の犠牲者は弱い者、幼い人達で、辛い記憶の中で育つ人達を思うと、第3次大戦は絶対起こしてはならないと思います。
 日本国民の殆どは戦争を知らない人ばかりで、政治に関わる人達の長老でさえ80歳代。経験の無い人達です。記憶を未だ持っている人は声を上げていただきたいと思います。
 忘れてしまわないうちに。

 ※体験者の証言を尊重し、文章表現はそのまま掲載しています。

体験者の証言募集
 いわき民報では戦争経験者の貴重な証言を紙面で紹介しています。戦争を知らない若い世代に語り継ぐためにも、ご協力をお願いいたします。
 手紙などの送り先は「〒971―8131 いわき市常磐上矢田町叶作13の3 いわき民報社『戦争体験証言集』係」まで。住所と名前、生年月日、ご連絡先をご記入ください。下記で投稿する際は、宛先の『戦争体験証言集』を選択してお送りください。証言は確認した後、紙面やホームページで紹介いたします。

お問合わせ

    宛先

    個人情報の取り扱いについて

    お客様にご記入いただいた個人情報は当社において適切・厳重に管理し、上記目的のご連絡ほか、各種サービス・イベントのお知らせなどにも利用させていただきます。

    個人情報について

    いわき民報社は、当サイト上でプレゼント、アンケートなどを行う場合、
    お客様からの同意を得たうえ、氏名、住所、電話番号、メールアドレスなどの「個人情報」を登録していただくことがあります。
    これらの「個人情報」は、本人確認や連絡、当社からの連絡目的などに使われるもので、
    第三者への開示や、提供はいたしません。
    また、登録いただいた個人情報は細心の注意を払って管理いたします。

    利用目的

    当社のアンケートなどの応募者特定やお知らせのために利用します。
    新聞購読申込者について、必要がある場合には販売店に開示します。
    ※個々のデータを第三者に開示、提供することはありません。

    管理

    本社で厳重に管理したうえ、外部流出のないよう細心の注意を払い管理いたします。

    削除など

    個人情報について削除、変更などを求められた場合、適切に処理いたします。

    お問い合わせ

    個人情報についてのお問い合わせは
    本社総務局電話0246(38)7171までご連絡ください。

    このサイトはreCAPTCHAによって保護されておりプライバシーポリシー利用規約が適用されます。

    PR:いわき市北部地域を中心に、児童養護施設、老人保健施設、特別養護老人ホーム、ケアハウスをはじめ、診療所とデイケア、デイサービス、居宅介護支援、訪問介護、訪問リハビリと多種多様な福祉、医療事業を展開。

    カテゴリー

    月別アーカイブ

    海産物加工品の製造販売 丸市屋
    More forecasts: 東京 天気 10 日間

    関連記事

    PAGE TOP