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戦争体験者の証言

戦争体験者の証言③-1

イラスト:金澤裕子

市勿来関文学歴史館・連動企画
髙橋冨美さんのお話㊤:1929(昭和4)年生まれ、錦町在住
〈学徒動員のこと〉

日の出寮

 学徒動員で1年近く神奈川県横須賀市にいたのですが、本当に貴重な体験だったと思います。戦況がきびしくなり勤労動員の学徒動員となり、1級上の先輩は郡山市の工場へ出発し、私たちは昭和19年11月、後輩たちや残留部隊(学校工場)に残る級友に見送られ、母親手作りのリュックサックと救急袋を肩に下げ防空頭巾を身に着けて、横須賀の海軍工廠へと平駅(現在のいわき駅)を出発しました。
 私たちの住んでいた「日の出寮」は、海軍工廠の持ちものだったので、私たちは優遇されていて配給も沢山ありました。一番奥の棟には秋田からきた挺身隊のお姉さんがいました。学徒動員令についての本があって、その中で浪江町の同い年の女性が取材に応じていて、「日の出寮」にいたと書いてありました。「日の出寮」は何棟もあったので、その時は自分のいる所しかわからなかったけれど、どこかの寮にいたのだと思います。浪江の学校に記録が残っていないかなと思っています。
 ある時、いわきから汽車に乗って、母親が「日の出寮」に面会に来てくれました。途中空襲に会い汽車から降ろされ、わずかな食糧を持って、部屋の窓を廊下からトントンとたたき、「フーちゃん」と言って皆に食糧を分けてくれました。親が面会に来てくれた時に限って、1泊だけ庭にある建物に親子で泊まることが許されていました。同室は5名でしたが、面会に訪れたのは体の小さい私の母だけでした。
 戦後、夫と娘と2度ほど横須賀を訪れ、日の出寮跡地などをタクシーで巡ったのですが、門はそっくりそのまま残っていました。

江ノ島の桜貝

  戦局が酷くなる前には、防空頭巾を持って鎌倉とか江ノ島辺りまで先生が連れて行ってくれました。それが思い出です。その時、(お土産などは)何も売っていませんでした。でも、桜貝の貝殻だけは売っていました。きれいなピンク色で皆桜貝を買いました。今も持っています。帰りに空襲警報が鳴って急いで帰りました。
髙橋さんが横須賀の日の出寮時代に江ノ島で買った桜貝。いまも大切に保管している。

横須賀の空襲

 戦艦長門が係留されていた近くのドック(船を造ったり修繕するところ)の上に小屋があって、私たちの班ともう一つの班の合わせて10名で、大きな四角の箱の側面に数字等を彫って、緑色のペンキで塗る仕事をしていました。作業場までは、職工さんが運転する電動車の荷台にガタガタと乗って行きました。最初はそれが面白く嬉(うれ)しかったです。電動車を降り、整列して海のそばの岸壁を歩いてドックの上まで行きました。戦艦長門の高いところから手旗を送ってくれる水兵さんに、皆で手を振って応えながら行きました。
 1日1日と戦争が激しくなり、毎日空高くに銀色の爆撃機B29が飛び回り、時折工廠内の職場近くに赤茶色の太い機体の戦闘機グラマンが星のマークが大きく見える位低く、かすめていくようになりました。仕事の途中で山の防空壕に出たり入ったりの日が続き、夜はいつでも逃げられるように着の身着のままで寝ていました。
 終戦間際の7月の空襲で、私たちが働いている直ぐ脇何メートルも離れない場所に1トン爆弾が落ちました。戦艦長門は各所に銃撃を受けて傾いていました。
 警報が鳴って、地下へ降りるよう指示されました。床下が開いて、下を見ると鉄の階段が続いていました。深くて恐ろしいけれども、1つ目の欄干を必死で降り、次の欄干まで降りて身を寄せ合っていると、爆弾が落ちて、いきなり欄干がブランコのように揺れ始め、皆「神様」とか「お母さん」とか叫んでいました。もうダメだと思っていると上のほうから「上がってこい」と大きな声が聞こえて、無我夢中で鉄の階段を登り、体が外に出た時、辺りは吹き飛んで何もありませんでした。「早く、山の防空壕へ」と言われて、防空壕に向かって走り出すと、泣き叫ぶ私たちのところへ、〈菊水隊〉といって特攻魚雷〈回天〉に乗っていく若い兵隊さんが現れて、私を背負ってくれました。山の防空壕は、普段は物資を保管していて鍵がかかっていたのですが、作業場の工員さんが鍵を壊して開けてくれたそうです。その人は機銃掃射で命を落とされました。何秒か違ったら、私たちも直撃でした。
 壕の中で救急袋の中から布を出して、怪我をした人の手当てをしました。夕方外に出ると、朝の風景とは一変していて、目の前は爆弾の落ちた大きな穴でした。40畳位の穴があいていました。泥水の中で歩くのが大変でしたが、岸壁の道にたどり着き、軍艦長門が沈んでいく姿を見ました。船体が半分海に傾き、朝長門の甲板の上で手旗を振ってくれた兵隊さんが甲板の上を走り回り、鑑を軽くするためなのか、煙突のようなものを下る様子が見えました。朝長門の向こうには駆逐艦がいっぱいでしたが、防空壕から出たら海の上には何もありませんでした。船が一艘も無かった。駆逐艦も巡洋艦もみんな掃射されてしまいました。泣きながら駆け足で宿舎へ向かう私たち10名だけが目にした光景は、何十年経っても忘れられません。
 寮に到着すると、室内に入ることなく庭に整列し、用意されていたおにぎりを頂きました。すぐに工廠とは反対の道を山の方へ向かい、高台の防空壕へ行き、そこで一夜を明かす事となりました。そこは横穴式の立派な防空壕で、敷板が敷かれていました。その夜は〈横須賀の〉街中へ爆弾が落ちると覚悟をしていました。すると何処からか音楽が聞こえてきました。恐る恐る見てみると、朝鮮の人のようでしたが、何人かでブリキの空き缶や石など様々なものを棒で叩いてリズムをとっていました。そのリズムが心地よく癒されました。その人の顔をよく覚えています。
 壕の中で夜を明かし、明け方外に出ると目の前の海が何キロメートルにも渡って夕焼けのようにオレンジ色に染まっていました。「あれは、横浜、川崎方面が燃えているのです」と先生が説明してくれました。横須賀の街中は何の被害もありませんでした。
(つづく)

※体験者の証言を尊重し、文章表現はそのまま掲載しています。

体験者の証言募集
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 手紙などの送り先は「〒971―8131 いわき市常磐上矢田町叶作13の3 いわき民報社『戦争体験証言集』係」まで。住所と名前、生年月日、ご連絡先をご記入ください。下記で投稿する際は、宛先の『戦争体験証言集』を選択してお送りください。証言は確認した後、紙面やホームページで紹介いたします。

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