市勿来関文学歴史館・連動企画
髙橋冨美さんのお話㊦:1929(昭和4)年生まれ、錦町在住
永遠の秘密 |
しかし、まだ油断は出来ず、警戒、空襲警報が続きました。食事は豆をしぼったかすを入れたご飯などで何とかお腹を満たしていましたが、月に2回位大福もちが配られました。待ちに待った何よりのごほうびでした。一部屋5人分が配られるのですが、餅どうしがくっついて、大きいのやら小さいのやらまちまちでしたが、子供ながらに頭を使って、部屋長さんが「あみだくじ」を作って、仲良く食べました。
終戦は職場で知りました。天皇陛下のお言葉がラジオで放送されましたが、よく理解できず、大人たちが「戦争が終わった。日本が負けたんだよ」と教えてくださいましたが、ただぼんやりとしていた状態しか覚えてはいません。ただ、一同で「空襲が無いのね」「モンペと上衣を脱いで寝られるのね」とした会話だけが記憶に残っています。
終戦を迎え、作業場の片付けなどをしていた時のことだと思います。私たちの班員10名のところにサーベルを下げた立派な兵隊さんがやってきて、「ちょっと来なさい」と言いました。その人について兵舎のような建物に入ってみると、水兵さんが沢山いて、おしるこや、一升瓶に入ったサイダーや、餅などが山ほどありました。サイダーはその時初めて飲みました。おしるこの缶がたくさんあって、食べたい一心で一生懸命食べました。その美味(おい)しかったこと。
すると兵隊さんが巻紙を持ってきて「ここに名前と住所と学校名を書きなさい」と言われて一人ひとり全員書いてきました。あの巻紙はどうなったのでしょう。兵隊さんは工廠の門まで送って下さって、「もうすぐ帰ることでしょう。本当にご苦労様」といってくださいました。皆で「さようなら」と手を振って別れました。
「先生に言うのけ」と口々に言いながら「(私たちだけごちそうを食べて)怒られるから言わないでいようね」と10人だけの秘密にしました。クラス会になると懐かしくてその話題になりました。辛いこともあったけど、こんな面白いこともありました。
先生が司令官と交渉して、終戦になって3日か4日後に、私たちはリュックサック1つでギューギューの汽車に乗って、(いわきへ)帰って来ました。
戦後の横須賀訪問 |
昭和47年に、学徒動員に行った生徒たち41名と先生2名で横須賀に旅行を兼ねていきました。米軍横須賀基地内の艦船修理部などを見て歩いて、あそこだったここだったと話しながら歩きました。
産経新聞の記者が取材をして記事になりました。(記事は)アメリカの新聞にも掲載されました。
戦艦長門とのつながり |
国民学校6年生の時に、福島師範学校を出たばかりの新任の川瀬先生が、高等女学校を受験する生徒に勉強を教えてくれました。会津出身だったので、「き」と「ち」が出来なくて、「ほうき」が「ほうち」、「はたき」が「はたち」になってしまう。「ほうち先生」などとからかったりしておりました。初めての生徒でとてもかわいがってもらいました。
その後、無事磐城女子高等学校に合格しました。校章と副級長のメダルをつけてセーラー服を着た写真を先生に送りました。先生は出征して戦艦長門に乗船し、長門から手紙が来ました。水兵さん姿の写真もありました。その後、私たちが学徒動員に行く前に、先生が戦死したと知らせがありました。
私は高等女学校を出てから、代用教員になりました。職員会議で校長先生と教頭先生の訓示がありました。ある時、会津みしらず柿が一人一人に配られました。どうしたのかと思ったら、「その柿は会津の川瀬先生のご両親から先生方食べてくださいと送られて来ているものです」とのお話でした。「そういえば私たちも先生から柿を二つ三つ頂いて、うちへ持って帰ったな」と思い出して、感激して、会津に手紙を書きました。
そうしたら先生のご両親から「どうしてもお会いしたいので、来てもらえないか」と連絡が来ました。両親のすすめもあり、出向くことになりました。
先生のお宅に着くと、息子の教え子が来たと、餅をついたり、近所の親せきが一同に集まり、息子が家に帰ってきたようだと先生のご両親は喜ばれました。それから70年ずっとお付き合いをしています。
兄の帰還 |
3人兄弟で、姉は病院に勤めていて浅草にいたのですが、休暇でいわきい帰っていて、東京に戻ろうとしたら浅草は空襲で焼け野原になっていました。病院の先生も看護師さんも皆亡くなってしまったそうです。
兄は満州(現在の中国東北部)にいました。戦争が終わって今か今かとラジオを聞いていました。そうしたら茨城県石岡市の戦友が「山本君は盲腸の手術をして、野戦病院にいる。重症だったので帰れないでいる。だから帰国は遅れると思います。」と葉書をくれました。母と私でリュックサックを背負って石岡まで行きました。帰りにおいもなど沢山頂いてきました。
その何か月後かに夜中にドンドンと戸を叩く音がして、玄関に真っ黒い顔の人がいました。兄でした。リュックサックを長い紐で引っ張って勿来駅から窪田までズルズル引きずってきました。
野戦病院には川を渡っていかないといけなかったので、沖縄出身の戦友が船をこいで野戦病院まで連れていってくれたそうです。そこで何か月か寝たきりで過ごして命が助かったそうです。そうして他の人よりも何か月か遅れて帰って来ました。
〈風船爆弾について〉
私が風船爆弾を調べ始めたのは、令和元年の毎日新聞に作家の高橋光子さんの記事が掲載されたのを見てからです。(高橋光子さんは)私と同い年なんです。学徒動員で風船爆弾をコンニャク糊でベタベタ作っていたそうです。その時の話を母校の中学生に講演をされたという記事でした。その時に生徒さんが「この風船はアメリカに着いたのですか?」と質問したそうです。高橋さんは茨城県北茨城市の北茨城市歴史民俗資料館・野口雨情記念館に来て、(風船爆弾に関する)展示をご覧になって、そこで初めて勿来から風船爆弾が飛んだというのがわかり、五浦とか勿来を調べ始めたそうです。
風船爆弾の基地が遺構として残っていないか資料を読んだり、いろんな人に聞いて調べました。
縁があって高橋家に来て、義父母から教わったのですが、この家に(軍の)上官たちがお住いになったそうです。胡口屋さんなどにもいらしたようですが、奥の座敷に軍服がぶら下げられていて、朝になると馬で迎えにきたそうです。
座敷に軍人たちがいて、義父母は納戸で生活したそうです。お手伝いさんがいたけれども、みな兵隊さんのお世話をしていたそうです。
※体験者の証言を尊重し、文章表現はそのまま掲載しています。
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