世界各地で戦火が広がっている昨今、戦争を知らない世代に過去を知り、平和についてあらためて考える機会としてほしい――。市勿来関文学歴史館は、戦時中に勿来から放球された風船爆弾のと10代の学生、生徒たちが戦争のために働いた学徒動員の事実を伝えるため、企画展「語り伝えたい記憶~風船爆弾と学徒動員~」を開催している。9月1日まで。
風船爆弾の10分の1模型や実際の球皮の一部、風船爆弾で命を落とした米オレゴン州の民間人6人を弔う記念碑のパンフレット、さらに80後半から90代の地元戦争体験者3人の新たな証言まで、貴重な資料約30点が来場者の心を打っている。
太平洋戦争の末期、1944(昭和19)年11月から翌45年4月まで、アメリカ本土に向けて勿来(市勿来関文学歴史館北西側)から焼夷弾などをつるした無人気球〝風船爆弾〟が放たれた。旧日本軍は「ふ号作戦」と呼び、勿来のほか、茨城県北茨城市の長浜、千葉県一宮市にも放球台が設けられ、総数は約9300発といわれる。
風船爆弾は和紙をコンニャク糊(のり)で何層にも張り合わせた陸軍式の気球と、羽二重絹にゴムを塗った海軍式の二種類があり、いわき地方では江戸時代から続く伝統工芸品「遠野和紙」が軍用紙として提供され、遠野の根岸地区では地元の小学生たちが和紙をコンニャク糊で張り合わせる作業をしていたとの記録が残っている。
また呉羽化学工業錦工場(現クレハいわき事業所)では、植田高等女学校(現磐城農業高)の女学生たちが海軍式の気球製造に携わっていた。
今展では模型のほか、風船爆弾の球皮の一部やひも、ロープと、直接視覚に訴える資料をはじめ、風船爆弾を題材とした長篇小説の直筆原稿、アメリカ本土まで届くジェット気流(偏西風)を発見した気象学者の資料、いわき民報賞を受賞した和紙漉(す)き職人の瀬谷俊次さんが、風船爆弾と遠野和紙について語った1975年のいわき民報の記事などを展示する。
東日本大震災の翌年にいわきに移り住んだ現代アーティストの竹内公太さんが渡米し調査、集めた5人の子どもたちと、妊娠をしていた牧師の妻の5人が爆弾の犠牲となった悲劇を伝える貴重な資料などが所狭しと並ぶ。
そして同館が20年ぶりとなる風船爆弾の企画展を準備中に偶然出会い、学徒動員で神奈川県横須賀市で1年近くを過ごしたという今年95歳の女性から借り受けた当時の写真、戦後27年ぶりに基地を見学した女性たちのようすを報道した新聞の切り抜きも。
3人の戦争体験者の証言はまとめられ、勿来町出身で、いわき民報社発行のフリーペーパー「個処から」の表紙などを担当する画家・アーティストの金澤裕子さんが寄せたイラストとともに紹介されている。
開催時間は午前9時~午後5時(入館は同4時半まで)。休館日は毎月第3水曜日(祝日の場合はその翌平日)。問い合わせは同館=電話(65)6166=まで。
(写真:勿来関文学歴史館に展示されている資料)
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