いわきで最初の図案家で、1942(昭和17)年に42歳の若さで亡くなった鈴木百世(ももよ)氏=旧平町生まれ=。鈴木氏が携わった絵図「常磐炭田鳥瞰(ちょうかん)図」や銘菓、地酒のパッケージの原画、いわき七夕まつりのポスター、繊細な手書きの絵はがきなど174点(印刷物含む)が、遺族からいわき総合図書館に寄贈された。
昭和初期の旧平市街地を中心としたいわき地方の情景や社会情勢、文化などがうかがい知れる貴重な資料で、同館では〝遺作集〟の調査分析などを進め、今後の展示などに役立てていく考えだ。
鈴木百世氏は1901(明治34)年、平町田町6男3女の末っ子として生まれた。住居は旧いわき民報社ビルの裏手あたりで、絵画が好きな子だったという。
東京府豊島師範学校(現東京学芸大)に入学して教職課程とともに美術を学び、東京府立の小学校で10年間教壇に立った。体調を崩して帰郷後、1935(昭和10)年に好きな絵筆を生かし、商業広告などを扱う「図案社」を設立。
長橋町の妻の実家が営んでいた菓子店「松屋」の商品パッケージを制作するなどして生計を立てる中、37年に平町が平窪村と合併し、平市として市政施行する際、公募した市章のデザインが第2位に選ばれたことを機に多忙となり、浜通りの炭鉱所在地を示した貴重な「常磐炭田鳥瞰図」をはじめ、さまざまな商店から商品のパッケージの依頼が舞い込んだ。
郷土の工芸品として、素焼きの人形に着色した「じゃんがら人形」にも力を入れたが=死去後、妻や長男哲夫さんの尽力で再生産に成功し献上品に選ばれた=、40年にふたたび教壇に上がることになり絵筆を置くことに。戦争が熾烈を極める中、2年後に倒れ、その年の暮れに他界した。
制作期間はわずか4年ほど。作品群は戦禍を免れ、哲夫さんが作品の一部を遺作集としてまとめるなどして大切に保管していたが、震災後に哲夫さん、妻の節子さんが昨年亡くなり、ひとり娘の久保木清江さん(62)=内郷御台境町=が昨年、実家を片付けていた際にそれらを見つけた。
作品にはシミはなく色あせも少なく、当時のままの状態。繊細な筆使いから祖父の几帳面さ、優しさが、保管状態から父の愛情がうかがえた。
「私は祖父のことは話でしか知らない。父からは遺作集の話も聞いていたが、記憶の片隅にあるだけで、見つけた時には懐かしさとともに、作品の素晴らしさに驚いた」と清江さん。父は市役所職員で定年まで勤め上げたことから、生きていれば必ずいわき市の発展のために資料を託しただろうと考え、いわき総合図書館に寄贈することを決めたという。
(写真:常磐炭田鳥瞰図=上が複製画、下が原画)
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