「何も言はない。」の書き出しで始まる、小川出身の詩人草野心平の「最後の詩」。心平の縁戚で生前、心平と交流のあった関内幸介さん(76)=明治団地=の根気強い調査研究の末、2022(令和4)年4月16日付のいわき民報で「最後の詩」が含まれる筆談記録と「最後の日記」が取り上げられて話題となったが、「草野心平日記」(思潮社)への収録が見送られた未公開の日記帳は市立草野心平記念文学館に移管されたまま、解読は進められていないという。
関内さんは心平の死から日記帳の〝隠匿・隠ぺい〟に至る一部始終を追い続けており、遅々として解読が進まぬ現状を憂い、同館の研究を後押しするため、手元に残る資料の解読を始めた。
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心平の最後の詩は、「ありがとう」の言葉で締めくくられている。
弊紙で不定期連載「最後の日々」を執筆している関内さんの次男で、いわき地域学會幹事の裕人さん(46)の調べにより、最後の詩の初出は荒俣宏編「知識人99人の死に方」(角川書店)にあり、初公開ではないことが後に分かった。しかし同書の解説にある「死の6日前に」「これが絶筆だった」との一文は間違いだと指摘。心平が死去するのは11月12日で、最後の詩は1988(昭和63)年3月8日夜、筆談の最初期に書かれたものと、裕人さんは元日号に掲載した初回の原稿でこう明かした。
関内さんが今回解読したのは、最後の詩の前に綴られた「最後の日記」。裕人さんとともに、周知の事実でもある〝隠匿・隠ぺい〟後に発見された日記帳の記録写真を根気強く解き明かしたもので、なぜ草野心平日記への収録が見送られたのか、その〝謎〟に迫るため21日付の紙面では解読に至る経緯と、原因のひとつとみられる心平と秘書灘波幸子との飲酒を巡るやり取りなどについて触れ、28日付では心平の心情が綴られた「1986(昭和61)年7月22日(火曜日)から8月22日(木曜日)まで」の最後の日記を掲載する。
「過度の飲酒はしないと心平が灘波に約束していたが、心平はこっそりかくして飲んで灘波から屡々(しばしば)『しかられた』。これが後に最後の日記が行方不明となる要因のひとつと考えられる」
市立草野心平記念館の研究に役立ててほしいとの願いから、これまでの解読分は同館に提供。関内さんは遅々として進まない解読が、これを機に加速することを期待してやまない。
(写真:解読にあたった関内さん)
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