盆のせいか私事ながら、とうに弔い上げの済んだ父を思う。早逝のため、何かの折にほめられたりしかられたりしたことこそあれ、物事を相談したり語り合ったりはおろか、親子げんかさえする間もなかった▼実際どんな思考の持ち主で、どう行動する人間だったのか、今になって考えている。幼少時は、一番身近なはずの父を自分より周りの方がよく知っていて、変な感覚だった。そうして聞かされた人柄や仕事ぶりが自分の中の「父」になった▼風ぼうの似た伯父に面影を重ねた時期もあったが、そんな人々も他界し、今やっと自分が父に一番近い存在になった気がする。若い遺影と向き合うと、自分も子どもに戻ってしまうのだが、親族らに(父に)「似ている」と言われれば素直にうれしい▼そして叶わぬながら、杯を交わしつつ今の社会についてなど、大人同士の話をしてみたいと思う今宵。そろそろ迎え火をたくとしよう。「迎え火や父に似た子の?の明り」(子規)
片隅抄